心療内科で酷い目に2回あった話。
鬱で心療内科にて酷い目にあった事がある人はフラッシュバックするかもしれません。今調子が悪い人は読まない事をおすすめします。
私が初めて心療内科に行ったのは16歳くらいだったかと。
その病院は母が調べて連れて行ってくれた所だったので何も知らなかったのですが、遠方からわざわざ訪れる人がいるような、書籍も数々出している先生だったようで最近それを知って少しびっくりしました。私にはまったく合わず、沢山の薬を軽い問診で出してもらっていただけで特に良い所は今でも思いつきません。ただそこはADHDに強いクリニックだったようで。鬱ではなくADHDでうかがっていたら何かが違っていたのかも。
そこから数年後、また酷い不眠症と鬱に陥り、就職も困難な状態に陥り、これは克服しないと引きこもりになってしまうと思い、違うクリニックに受診した事があります。そこは医師とは別にカウンセラーが在中している所でした。医師はまぁまぁ普通の人。いつもの通り、安定剤と睡眠薬のセットが出た後に、カウンセリングも行ってねと言われ、別室のカウンセラーの所に。そのカウンセラーが恐ろしく自分とは合わない人でした。
色々言われたけど、ショックで覚えているのはおぼろげですが、
死にたいの?リストカットなんかして。そんなに死にたいんなら、切ったら確実に死ねる場所を教えてあげるよ。中途半端に切っても救急車呼ぶだけだから連絡とれるもの、携帯電話とか自分から遠ざけてやってね。はいさよなら。
そんな感じの内容。
もしかしたらショック療法的な何かだったのかもしれない。でも、そのカウンセリング後に何か心の中で良い方向に向かったとか、変化が起きた記憶は全く無い。
それ以降、心療内科がすっかり怖くなってしまって不眠になると内科や、神経内科に受診し、睡眠薬、頭痛薬、安定剤をセットでもらうのが一番安全だと思いそうしてきました。
ある時、どうしても遅い時間にしか病院に行けず、駅近の神経科がありまして、そこを受診した事があります。今から考えるとどうしておかしいと思わなかったんだろう‥って思うのですが‥そこの病院は、神経内科、心療科を掲げている所でした。
入り口に「神様に愛されるには‥」みたいな張り紙がしてあります。箇条書きでつらつらとかいてある。呼ばれて診察室の中に入り、頭痛が止まらないという事、寝れないので日中疲れてしまうという要点をつげると最初は普通に話をしてくれていたものの(かなり向こうが一方的にしゃべっていた)私の一言をきっかけに先生が突然逆上し始めた。なんのワードだったかも覚えていない。本当にささいな一言で突然だったためかなりパニックに。
お前の左の頭が痛いのは魂が体を嫌がって抜け出ているからだ、精神異常者め、精神病棟に送り込んでやる。拘束して電気ショックかけてやるからな!!とどなり散らかされ出て行け!と荷物を部屋の外に放り投げられました。
嘘のようですが、本当の話です。
その時の心境をぼーっと客観的に見ている自分がいたので鮮明に覚えているのですが、ああ、またか。避けようがなかった出来事だからこの状況を受け止めるしかないけど自分がこの出来事のせいでしばらく外に出れなくなったり対人関係で震えたりしてしまうのはめんどくさいな‥と切り離されてしまったかのように感じていました。
それらの経験を経て、心の病は病院や薬じゃ根本からは治らないのかもしれないと、催眠セラピーに行ってみる事にしたのです。そこに行き着いた時には押さえきれない怒りと数々の感情に振り回され肉体も心もボロボロでした。
私はあまり、病院というものはおすすめではないです。
でも、自分じゃ自分を冷静にどうしても分析できないときもあるんですね。
そういう時は、信頼の出来る第三者がいてくれると癒しの始まりになります。
遠くから目的地を見ているとはっきりその場所がどういった所だか把握出来るのに、その目的地の中にいるとどういう環境の場所だかよく分からなくなってしまう、そんな時は外から地図を持ってみてくれている人がいたら自分がどこに向かうべきかわかりますよね。
今現在、自分は場所を見失いつつあるんですけど、仕事を辞めたりこうやって文章で自分の思考を追って整理する事でバランスを保たれている感じではあります。
まとまったお金ができたらまた、カウンセリングに行ってみようかな。また新たな進むべき道のヒントが見つかるかもしれない。
白菜中毒。
冬は寒いので苦手です。肩こりが酷くなって体のあちこちに異変が起きます。
でも、鍋料理が大好きなので、それだけは好きです。白菜が安くなってくると
本当に嬉しいです。毎日鳥と白菜の水炊きで生きて行けるくらい好き‥
好きな鍋料理は、まず鶏ガラでスープを取って塩で味付け、白菜、春菊、人参、豆腐、キノコ、くずきり、鶏肉。豆乳を入れたら豆乳鍋に。極限に余計な味がしない体に優しい感じ。
あとキノコしょうゆ鍋。きのこをとにかく沢山いれて、ゴボウ、鶏肉、きりたんぽあとは好きな野菜。あじつけは醤油をお好みで!これもさっぱりですがコクがでます。
チゲ鍋も好きで、こだわりの作り方はまずキムチを炒めること。これをやる事でコクと甘みが出ます。そのあとに水を入れて好きな具材を。ミソを入れるとさらにおいしくなります。
私の好きなもの、食べれるものが偏っているからか、水炊きのような味の少ない料理ばかりになってしまって家族は多分不満だらけではないかと思うんですけど、でも、自分があまり好きじゃないものって料理しようとしても失敗してしまいます。不思議です。
偏食について気になったので少し調べてみる事にします‥
「苦いものは毒」「酸っぱいものは腐っている」
味覚の防衛本能が働くので、こういったものは嫌われがちなんだそう。子供は特に。
確かにそうだったかもしれない。子供って変わった味覚のものなど、慎重で怖がったりなどしますよね。でも、大人になってから苦みのあるものなど、食べれるようになるから不思議。これはたべれるよーって経験が味覚を変えていくんですかね。
私は子供の頃、お菓子や添加物が入っているものなどをかなり控えた生活をしていました。親が無添加などにこだわるタイプだったからです。おかげで、野菜やダシが好きですが、反極にあるような濃い味のニンニクトマトチーズの味付けのものなども好きです。これは幼少期にみんなが食べていて自分が食べられなかった我慢の反動ではないかと自分では思っています。
うちの子供達にはあまり、添加物制限などはしていませんがやはりシンプルなものを好む傾向にはあります。私が普段食べれる料理をサイクルで出してしまっているからなんでしょうね‥反省です。
知り合いで母親が歯科衛生士の方がいて、かなり甘いものなど制限されて生きてきたそうなんですが、結婚して自由になったとたん反動で甘いお菓子、ポテトチップスを食べるを止められなくなってしまったと言っていました。子供に食事制限を過剰にしてしまうのは考えものですね。世間、環境とのバランスが大切だなと感じます。
子供の偏食についてはおおらかに見守っていこうと(自分のせいでもあるので反省)と思っていますが、自分の偏食はどうにかしたいので食べられるものを増やして行こうと思います。食べれないものがあるっていうより、あまり食にこだわりがないというか、たべたい!!ってものが少ない。料理のレパートリーを増やして行きたいです。笠原さんの鍋料理本欲しいな。また鍋か!って子供に突っ込まれるかも‥
鬱からの脱却
今、すんごい疲れていてあまり頭がまわりません。そこまで疲れる事はしていないのだけれどこの時間っていつも疲労感が辛いです。体力的に疲れてないのに、だるさ、疲労感がえげつない時って何か潜在意識、エゴが働いてる気がする。新しい事を始めようとしている自分を押し込めようとしてエゴが暗躍しているのかも、なんて思ったりします。
鬱が軽減した事について語りたい。
さて、ブログを始めた理由に長い長い鬱状態のはてになんとなく見えてきたものを書き残したかったというのがあります。鬱っていうのは本当に辛いもので。
10代の頃はよく分からない自分の中のドロドロに飲み込まれ戦っていた感じ。世界のどこからも相手にされず、孤独で一人きりで、いなくなれと言われているような気がしました。被害妄想も半端ではないので、授業中自分がゴミのように感じてしまい悲しくなって突然シクシク泣き出したり‥めんどくさい奴です。服装や、容姿についてなど、母に事細かに口を出されていたものですから、自分で服を選んで着るという事が怖くて出来ませんでした。あなたは黒が似合う、いつもそう言われてたので、自分で選べるのは黒い服ばかり。友達から魔女と呼ばれていました。神経症になり、服のぼたんひとつ外して歩く事が出来なかったのです。首もとのボタンを外すといういつもと違う事を自発的にすると、すれ違う人全てに笑われてる気がしました。家では、外での自分の行動が脳の中をぐるぐるエンドレスにめぐりフラッシュバックするので、それをかき消すために髪の毛をむしりながら大声をだして発狂していました。
あまりに小さい時から、自殺、消える、という事ばかり考えていたのでそれが自然というか、普通がどういう事なのかよく分かりませんでした。転機が訪れたのは高校の時、担任の先生が母に心療内科に連れて行って投薬治療を受けたらどうかと提案してくれた事でした。当然母は、うちの子にそんな必要ないと反発していましたが、リストカット、自殺願望があまりに酷くて渋々連れて行ってくれたのです。そこはあまり良い心療内科ではありませんでした。気持ちについてのアンケートを書かされ、診察室に呼ばれ、先生が質問をすると全て母が受け答え、私はほとんどしゃべらなかった。でも先生は「軽い鬱ですね」と言い、次に「薬を出します」と。大量の安定剤と睡眠薬を出してくれました。
私は嫌な事があると睡眠薬を飲み、逃げる事が出来るようになりました。悲しくなったり、絶望感が迫ってくるのを感じると薬を多めに飲み、2日、3日とほぼ寝ている状態でその時をやり過ごしました。あまり健全ではありませんが、寝ている時は、逃げ出す事の出来ない家族から逃げる事が出来たのです。
そんな状態で何年かすごし、高校卒業後、美術の専門学校へと進みました。そこには私よりも変な人たちが沢山いて、同じような鬱を煩っていたり、メンヘラちゃん友達がいっぱい出来たので義務教育間に感じていた孤独はかなり減少させる事が出来ました。でも根本からの解決にはなっていないので、何か他人から言われると、例えば「この作品は駄目だね」みたいな事を言われるとすぐに奈落の底まで落ちて、いとも簡単に鬱状態に戻りました。
鬱が良い方向に向かったのは子供が産まれた事がきっかけでした。産まれた後は、酷かったんだけど、この子の為に普通のお母さんになりたい!どうにかしたい!って心底思いました。
孤独の淵から這い上がる為には
自分の根本を見つめる、潜在意識を見つめる事で癒しが起こります。まずは自分のありのままを知り、受け止める事です。
そこに感情はいりません。ただ自分の心を傍観するんです。私の場合、解釈はあとからついてきました。鬱の人は、自分の心の中を見つめ声を聞いている自問自答状態にあると思いますが、自分の事をよく分かっているようで分かっていないんです。私は良い先生に出会えて、自分のインナーチャイルドに対面する事が出来て本当によかった。カウンセリングの必要性を心底理解しました。
一人で解決する事は難しい。
鬱で苦しい思いをしている人がいらっしゃいましたら、あなたに寄り添ってくれる人ができますように‥。孤独を感じている人がいらっしゃいましたら、ただ話をきいて、うなずいて受け止めてくれますように。
私はセラピーに通って、母からのトラウマと、自分の作り上げた思考の装備に気づく事により、鬱からの脱却の第一歩となりました。いまだに完全によくはなっていませんが、普通の状態がこんなに楽なんだと、普通の人はずるいなぁと思いました。
長くなりましたのでまた次回‥
怒りは出し入れ可能な道具である
久々に怒りの感情をぶつけた出来事があった。
クリスマスの食事を用意してくれていた母に、これ持っていってテーブルに並べてと言われたのだが、息子のリクエストに応え海外のサイトにアクセスしてサンタ追跡サイトの英語を必死に読んでいた時だった。必死になっていた為、ちょっとまって、と言った所、母の機嫌が悪くなり、ため息をついたりあからさまに嫌な顔をされたり、それくらいの事でそんな態度を取られると思っていなかったのでなんだか非常に腹が立った。
母は多分、自分が必死に家族の料理を準備しているのにすぐに運ぶという対応をしてくれなかった事に腹が立ったのだろう。
一方私は、そこに置いといて、きりが良くなったらすぐに運ぶからくらいの気持ちだったため、思いもがけず、相手の都合にそった態度をとらなかった事で
ため息ついたり見下されると思っていなかったので非常に腹がたち、これは怒りという道具を出して相手に見せても良いケースなのかもしれないと、静かに怒りをぶつけてみたのである。
昔は、親の言う事は絶対服従であると思っていた。でも、人はみな対等なのである。お互いに発言権もあるし、どちらかがどちらを制圧するような事は親子関係でもしてはいけない事なのだと思う。
感情的に怒りをぶつけてはいけないとは思うが、親にも、あなたのこんな発言、押し付けの思想により私は怒りを感じます。と、意思表明する事は大切な事ではないかと感じるのでした。
サンタさんこれください!
昆虫図鑑!
すごい美しくて、宝石のようで見ててあきません!自然って凄いなぁー
自分のことは分からない
自分の事は分からない。
判断が出来ない。
人の事だったら分かるのに。
こうすればよいのに、とか、他人の事だとすぐに判断できたり
することありますよね。
分からない、冷静な判断が出来ないのは守るべき存在だから。
守るべき存在に対しては、冷静な判断が出来ないようになっているから。
自分のこと、家族のこと、うまく考えられなかったりします。
逆に考えると、守りに入るのをやめると冷静な判断、客観的な判断ができるようになるということ。
かんたんだけど、守りをとっぱらうというのはそう簡単には出来ないですね。
長年装備し続けてきた重い思い装備を、少しずつとっぱらっていこう。
来年の目標のひとつでもあります。
接客業を辞める決心をした理由。
私は子供相手の接客業をしています。対人恐怖症、協調性、社会性無しというやっかいな状態からのスタートでした。なんで接客業にしたかというと、家の近所で時間的に都合が良く、大好きな写真絡みのお仕事だったから。
いざ仕事を初めてみると、体力的にハードだし、覚える事も非常に多く、対ひとなのでクレームなども直に自分に返ってきます。最初のうちは対人恐怖を抱えている自分には耐えきれない仕事だと何回も辞めようと思いました。でも、沢山の人間を客観的に観察出来る場というのはそうないので沢山の社会勉強をさせていただきました。トークひとつでグレードアップして高い商品にしてくれたり、全て真実を伝えるのではなく、やんわりと相手が不快に思わないように伝えたりする事でクレームにならず満足して帰っていただけたりと、人間って、多少こちらからの言い回しでコントロールする事が出来るんだという事を学びました。反対に考えると自分もコントロールされている場面もあるって事ですよね。そう考えると少し怖いな。
来店されるおきゃくさまは、なんとなくですが何種類かの傾向に別れ、このタイプにはこう言ったほうが良いのだな、とか、もっと砕けたトークで突っ込んだりした方が良いタイプかな、とか、自分で模索しながらやれた事は大きな経験となりました。人の壁を超えるには、人と接するしか無いということですかね。私は最初何も分からなかったので、何から何まで細部を説明しすぎてしまっていました。沢山の商品が棚に並びすぎていると人はかえってベストなものを選べなくなってしまうそうですが、言葉も厳選し、選択肢を与えすぎない事で迷いすぎて分からなくなってしまうというストレスを軽減させる事が出来る事を学びました。
私の周りの先輩スタッフはドライなようで、やりがいを感じ、責任感も強く、お客様に笑顔でお帰りいただきたい!と、ある程度情熱を持って仕事をこなしている方が多いと感じました。私はそんなスタッフの気持ちの部分にも助けられました。みんながつらいとブーブー文句を言いながらも楽しそうに仕事をしているので(休憩もとれないほど忙しい)お店のためにも、お店を任されている社員さん達の為にも微力ながらも力をつくして頑張りたいと思いました。働いている側も、来店されたお客様も笑顔でいられる為に、自分の力を注ぐ事がとても幸せに思えたのです。
仕事を始めてから何年かすると、お仕事は出来るしやるべき事は淡々とこなしていかれる上司がこられました。頭の回転もよく、さくさくと物事を進ませていくので、スムーズになんでも進むようになりました。スタッフもそれに順応し、そういった環境になっていきました。おきゃくさまの心にはあまり踏み込まず、マニュアルをただこなしていく環境に私は始めた頃に感じていた情熱というか、エネルギーを感じる事が出来なくなり、ただ、なんでこんなきつい仕事をしているんだろう、朝から作り笑顔をし、淡々と技術だけで仕事をこなし、流していく‥。仕事上がっていいですよ、の言葉を待ち続けるだけの時間。かつて感じていた大変だけれど、頑張りたい、学びたいという気持ちがどこかに行ってしまいました。
こういったもんもんとした状態がしばらく続き、「はやくこなして流して」のオーダーに何も考える事を辞め収入のために過ごしてきましたが、ある時を境に、仕事はこれだけじゃない、環境を変える勇気を持つべきでは、と考えるようになりました。
長く続けた仕事を辞めるのはとても勇気がいる事だと思います。覚えた事、技術、全て放棄する事になるので‥。社内で資格も取っているので、それも迷いになりましたが、心が空虚になってしまった感覚が続くのが良い事だとは思えず一歩踏み出し環境を変えるのがベストな選択になるのではと思いました。
新年から、新しい方向に向かって探求していきたいと思っております。まだまだ知らない世界を学んで行きたい。