捨てる神あれば、拾う神あり
世の中には様々な人がいて、自分のことを見限って相手にしてくれない人もいれば、その一方で救いの手を差し伸べてくれる人もいる。
日本には八百万の神がいるのだから、不運なことや非難されるようなことがあっても、くよくよしなくてもよいという教え。
「捨てる」は「棄てる」とも書く。
「捨てる神あれば助ける神あり」「捨てる神あれば引き上げる神あり」ともいう。
ここ最近、あまり良くない事が続いた。
私はADHD、注意欠陥症候群おまけにLDの傾向があるんだけれども
つい子供の小学校のPTAを引き受けたばっかりに保護者会でパニックを
起こし、わけの分からない事を沢山口走ってしまい総勢30人近くに
ポカンとされてここでは書ききれないくらいのイタイ人をお披露目する
はめとなった。
仕事面でも、イタイ人状態が続きアリ地獄にはまったようにジタバタ上に
のぼれずもがけばもがくほど下に引きずりこまれているような感覚が
続いている。さすがに精神的にきつく、毎日デパス(抗不安薬)を服用し
就寝する状態が続いている。こういった障害ぽい人は分かると思うんだけど
いつどんな時も自分の思考が止まらなくなる。寝ていても、ずっと自分の
頭の中の思考がおしゃべりを続けているのである。
今回は神様に豪快に捨てられた。試練を与えられたのかな・・。
でも、自分のした決断に後悔はしていない。でも、その決断でいいよ!
と背中を押してくれた人が今になって、あんな決断をしたから自業自得
じゃないと態度を翻された事は多少あたまにくる。さすがにね。
でも、結局は自分なんだ。
自分の環境、周りの人々は自分の反映。
こんな文章を読んだ。自分の中では節目に繰り返し、繰り返し出会う言葉であって
得に目新しいものでは無かったんだけれども、すっかり忘れていたもので
はっとした。まさにその通り。私は損得感情で動いていた部分も多くあった。
仕事面であの人と仲良くしとこ~とか、下手に出たりとかしていた所が
あったと思う。
友達が少ない事は気にしていないけれども、自分を信用していないから
他人を信用出来ない。きっとそれがドカンとかえってきたんだ。
どれだけ本を読んでも、自分の位置や正しい立場、立ち振る舞いを
見極めようとしても自分じゃ難しい事がたくさんある。
30すぎでもこんなんだから途方にくれるな・・。
でも、昔より、ずっと生き易くはなってきてる。
捨てられたあとには、ほんの少しでも良い事がおこるっていう
法則があるのを知っているから。今日、素敵な神様に手を差し伸べて
もらって近い未来に夢を託してきた。
自分のいる場所が分からなくなって、こんがらがって抜け出せなく
なっている人ってたくさんいるんだろう。
現実世界では言い出せないだけで。
人間は単純ないきものじゃない。
でも、死ぬまでにはシンプルに、素直に、何かを見極めたい。
まずは文章うまくなりたいな。がんばってかく。
なるべく継続する。
稚拙な文章ですが、読んでいただき、ありがとうございました。
私にドッペルゲンガーが現れた日
つい半月程前、私にドッペルゲンガーが現れたんですよ。
「写し、コピー」という意味。
以上の意味から、自分の姿を第三者が違うところで見る、または、自分が異なった自分自身を見る現象、「生きている人間の霊的な生き写し」などを指すために用いられている。
ドッペルゲンガーの特徴として、
- ドッペルゲンガーの人物は周囲の人間と会話をしない。
- 本人に関係のある場所に出現する。
これがドッペルゲンガーの定義であるなら、まさにその通りなのです。
ながらく休職させていただいておりました職場から、来月のシフトを作りたいのだけれど進退はどうするのかという連絡があり、改めて退職を希望する事を伝えました。後日退職届を出しに職場に行った際、「年末にお菓子を持って話し合いに来てくれたそうなのに、休みで話し合いが出来なくて‥」と店長から言われてびっくりしました。
年末に行った記憶なんて一切無かったし、その間余計な事は言わない方がよいと思ってあまり職場の人とは会話をしたり連絡をしていなかったのです。
前々から、他人づてに聞いた話をこじらせ癖がある人だなぁと思ってはいたけれど、まさか職場にお菓子を持って話し合いに行っていた所まで発展するとは思ってもいなかったので、とても興味深かった。私の辞める事に対しての迷いがドッペルゲンガーになり、もしかしたら本当に職場にお菓子を持っていったのかもしれない。
と思うと昭和の時代に流行ったテレビ番組を思い出して少し笑いました。
噂を流されるといった経験は多くの人がある事だと思うのだけれど、我が家には以前、こんな噂を流された事があって、
流行の伝染病にかかったというもので(蚊の媒体するアレ)、なんと全然違う学校のお母さんから、かかったんでしょ?とわざわざ確認された事がある。
流石にこれはいきすぎではないかと怒りがふつふつと湧いてくるのを感じました。かかってもいない伝染病になった事にされてしまうなんて…。元ネタを探ると、フェイスブックに「代々木公園近くに毎週用事があり通わなければならない。蚊の対策に気をつけよう。」と書き込んだ事が原因だった事が判明しました。
SNSの言葉の軽さを改めて感じた出来事でした。
伝える側がどんなに真実を伝えようと言葉を紡いでも、受け取る側の理解に誤解が生じてしまったらそこを埋めるのはなんとも大変な作業で。噂、口コミは猛烈な勢いで広がっていく。
他人に対してはっきりと自分の意思を表示する事ができない臆病な人は、恐怖心と不安感から他人を噂の主人公として作り上げ、落とし込む(生け贄を作る)事で、自分が噂されない安全な世界を作ろうとする。
人って、無意識にまだこの世界に生け贄を捧げているんですね‥。
悪の根源が見つかると人って安心するものです。
例えそれが、スケープゴーストであっても‥
雑用ってめんどくさい?
やりたい事意外の事を雑用としたら、いかに自分の人生の時間が雑用で占めているかがわかる。出来るなら自分のやりたい事、必要な事柄だけをこなしながら毎日を過ごせればいいのに、と思ったりする。
仕事での雑用はめんどくさく、あまりやりたがる人はいない。でも、接客オペレーターの為のパソコンまわりのサンプル商品を自分の手で整理整頓するとどの配置が効率的に商品が目に入りやすいかを発見できたり、朝の掃除の時間に掃除機をかけてまわったりしているとお客様の導線を考える事が出来たり確実に自分の引き出しに知識がつまっていく事に繋がる。
雑用を丁寧にこなせる人というのは、細部までちゃんと作り込みが出来る人であるということ。
気持ちがネガティブに働いてしまうような雑用はさけるべき、スルーすべきことだけれど、自分の心の引き出しにしまえるような雑用は細部まで丁寧にこなそう。
質の良い雑用を大切にすると人生の多様性に繋がる。
雑用は心をゆたかにする未来への種まき。
求められるゲス人。ゲスが愛される理由。
ゲスとは、心根の卑しいこと。下劣なこと。また、そのようなさまやその人。身分の低い者。
というのが本来の由来であるらしい。
でも、最近テレビで見た現代のゲスの認識はかなり違うものだった。
ゲスな女が、愛される。-あっという間に思い通りの恋愛ができる!
- 作者: 心屋仁之助
- 出版社/メーカー: 廣済堂出版
- 発売日: 2015/08/13
- メディア: 単行本
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「ゲスな女が、愛される」私は本屋さんでちらっと表紙を見た時身分の低い人が愛されるほん?とちょっと不思議に思った。本のイラストからもイケイケな感じがしてあまり気にもならなかった。
後日、作者の心屋仁之助さんがフジテレビのノンストップに出ていて軽くこの本でいう「ゲス」を説明していたのだけれど、私の認識しているゲスの意味とはかなり違うものらしかった。
心屋さんのいう「ゲスな女」とは、
シンデレラのように自分に素直で、貧しくボロボロの身なりでいながらも王国のパーティに出席しようとしたり、王子様からの求婚も身分の違いもわきまえず何の躊躇を持たずに自分の欲求や願望に素直に行動出来る女性の事をさしているらしい。
確かに、物語からあまり詳しくシンデレラの心情を考えた事はなかったけど、天と地のさもある王子様から求婚されて二つ返事で「はい!結婚します!」と答えて幸せを選べる人って実はあまりいないかもしれない。一般人がロイヤルファミリーに嫁いだらどれだけの苦労や困難が待ち構えているか頭をよぎるのが普通だろう。
- 何故いま、「ゲス」な人間が求められているのだろうか。
ゲスな人間とは、自分の欲求に素直に行動できる人の事である。
今までの日本の風潮としては、自分の意見はまず押し通さず他人と協調性を持てる人格が重宝されてきた。内容の同じ仕事を多人数でこなした方が生産率が良かったからだ。でも、今は様々なシステムが構築され機械が仕事を担うようになってきた。そしてネットが発達し、そこでコミュニケーションがとれる世の中にもなった。
単純作業は機械やシステムがこなせるようになってきたので、より、一人一人の個性が重視される世の中になってきたのだと思う。単純な事はますます機械に任され、人工知能も発達していくだろう。未来の私たちに必要なもの、機械に勝る術は、個性と考える力なのだと思う。
- 個性は自分の芯(真)の部分から反映される
個性とは、環境から構築されていくものではなく、自分の真ん中の部分、芯(真)の部分からはっせられるものだと思う。いくら上辺の知識で個性を気取っても自分を偽るという無理な行為からほころびが生じ、他人からも、自分自身にも違和感が生まれてくる。ではどうやって芯のある個性を他人に感じてもらえば良いのか。
それは、まさに「ゲス」になることなのだと思う。
心に余計な装備を纏わず、いつもそのままの心でコミュニケーションをする。いつもどこか本音の部分で話が出来る人であるという事。
駄目な自分を許せないでいると、自分そのものを受け入れられなくなります。弱いありのままの自分を見せたくないと見栄をはったり虚勢をはると、周りに攻撃的になったり逆に消極的になったりする。駄目な自分、そのままの自分を受け入れる、
愛されようとするのをあきらめる
あきらめる事で余計な力がぬけて、そのままの自分を受け入れてくれる人が周りを囲み、良い環境を手に入れる事ができるののだと思う。
これからの未来は、今までのようにレールが無い時代。
経済や、人間の円満な未来を望むのであれば私たちはゲスでいなければならないのかもしれない。人の為にではなく、自分の為に働く社会。
ありのままに。
個性を武器に、未来を切り開く必要があるのだ。
言葉はその人のもとを離れると別物になる
私はまだ、ブログ界のことなんて全然わからなくて、難しいこととかすぐ「?」ってなってしまうし、技術のこととかもう「???」ってなる。
何も分かってない人が分かる事もある。
私は注意欠陥というものと共存しているので、そのせいもあるのか分かりすぎる事、単純なのに全然理解出来ない事などもある。
でも、ブログをここ最近いろいろよんでみて、伝えるってすごいなって思うんです。リアルな世界では、自分の心のうちを語り合う機会なんて一般にはそうそうないじゃないですか。でもブログではみんな、自分の胸の内に秘めている言葉をびっくりするくらい上手に心に響かせてくれるんです。子育てブランクでじっくり活字と接する時間が無かった私は改めて言葉、文字の力を感じました。
言葉を話すのは人だけで、私たちはそれを当たり前のように使っている。私の綴る言葉は稚拙だけれど‥いつか、誰かの心にひっかかる言葉を当たり前のように書けるようになりたい。
SMAPやらベッキーやら、いろいろメディアが騒いでいたけれどもメディアが発する言葉は断定的なものが多くて表面的な表現ばかり繰り返し脳みそに刷り込みをしてくる。発する側も責任があるのは当たり前なのだけれど、受信するこちら側にも責任があるのを忘れてはいけない。
伝え手から放たれた言葉は、完全に独立し私たちの物になるのだ。作られた料理は同じものでも、食べた人それぞれで味が違う。感性が違うからだ。味をどう感じるかはその人次第という事になる。
言葉だって同じ。受信した時には完全にそのひと個人のものになる。味わうか、ただ流し込むだけなのか。
言葉を放ち手放すと、受信した人の物になる。
という事は、褒めたり批判したり、感想や批評を述べる時にはこちらの責任があるのだと言うのを忘れてはならないと思う。
伝え手と受け手。このテーマ、もっと文章がうまくなったらまた改めて書きたい。
低学年、男の子問題
多くの母親がぶつかるであろう、男の子問題。
うちのがきんちょも例に漏れず、集団生活で問題にぶちあたっている模様である。
幼稚園の時は担任の先生いわく、いわゆる手のかかるやんちゃな男の子だったそう。
でも、他の子に手をだしたり喧嘩をするのはほとんど見た事はなく、私としては頑固な上の娘より扱いやすく育てやすい印象だった。
でも小学校にあがると、先生から困ってるんです。のお声をよく頂くようになった。まず、やり始めた事を最後までやりきるまで切り替えられない。自分の中で正しいと思った事を曲げられない。授業中さんまんになっているなどなど。他にもたくさん、色々いわれたんだけれども、30分近くの駄目だしに呆然としてしまってあまり覚えていない。
私はこれからの時代、「個性」「コミュニケーション力」「興味のある分野(またはついた仕事)に対しての専門性」が大事になってくると、ここを軸に子育てを行っているので、子供が興味を持った事に対してはかなり専門的な所まで好奇心を満たしてあげれるようそういった教育を家では行っていた。私の前では、そこまで切り替えられなく困らせるといった行動を取る事は無かった。大体調べ尽くしたかなーというタイミングで次に切り替えさせれば大体いう事をきいてくれた。
長男は宇宙に対してなどはかなり詳しく、大人も調べないと答えてあげられないような知識をめいいっぱい詰め込み、毎日iPadと宇宙図鑑で宇宙旅行を楽しんでいた。得られた知識はやはり誰かに聞いて欲しくなり、ハッブル宇宙望遠鏡はね‥、パーセクってね‥、冥王星はね‥と楽しそうにおしゃべりをしてくれた。
問題は、学校の指導中でもこのような知識をひけらかしてしまう所である。彼いわく、学校の授業内容がつまらなくなってしまうと、頭の中で大好きな宇宙の物語がかけめぐり、楽しくなって話したくなってしまうのだそう。これは入学したての時の話で、最近はかなり行動の制御がきく方にはなってきたかな?と思うんだけど、まだ、自分の興味のない授業内容だと教科書が出てなかったりする事もあるみたい。
先生が手に負えないというか、困った様子だったので何回か授業を見学しに行ったのだけれど数人が立ち歩き、騒いでる子もかなりいるような状態だった。
授業中、先生の話をぶったぎって自由な発言をしちゃうのはだいたい男の子。立ち歩いて廊下にいっちゃったり、喧嘩して手が出たり、注意されてふてくされて机につっぷしちゃうのも男の子が多い。
男子って、こういう生き物なんじゃないだろうかって思う。原因をつぶすやり方ではなくて、元々そういう要素があるのだから、そこを転がす方法は出来ないか?と先生に提案してみたのだけれど、今の時代教師でそこまで対処するのは難しいのだそう。子供を適切に叱る事が出来ない世の中なのだ。
脳科学によると、「手がかかる」「大変」「育てにくい」などの部分が、あとで伸びる要素と裏表の関係にあるそうです。つまり、男の子脳の場合、先に大変な部分が出るわけで、その分あとで伸びるということなのです。
ベネッセ教育情報サイト
先に出てきた男としての本能的な部分を、座れ、黙れ、みなと同じ事をしろと大人の言う事をきかすのはある意味で正論なんだとは思う。日本の学校ってそういう場所だから。みんな同じ事をして、敷かれたレールの上や、ルール上で優秀な子が認められる組織が一番楽で非難を受けにくいのだから。
でも人間はみんな同じではない。性格も、知能指数も。家庭環境の違いもあるだろう。それを同じ型にはめてやりすごそうという学校という組織に時代遅れ感が否めなく、子供が入学してからまだ日本の一般的な教育ってこんな感じなんだ‥と少し驚いた。
昔より、教師がクレームを恐れ子供を怒る事が出来なくなったのでなおさらである。
子供、特に男の子が動き回る、次々に関心が移っていくのは健全な事なんだそう。体の血液を循環させるという目的の為に体が自然と動いてしまうらしい。
男性は女性より感受性が鈍い生き物なので、行動でどんどん認知をしようとする傾向がある。女性は美しい景色などを見て感情で幸せを感じるが、男性はそこに向かいどのようになっているか確かめる事で好奇心を満たし幸せという事実を確認する。
私は、うちの長男が好奇心でどうしてもやりたい見たいとこだわり衝動に陥りそれしか見えなくなってしまった時にはなるべくその欲求を満たしてやるように努力する。状況によって時間がせまっていたり環境がそれを許さない場合はあきらめさせざるをえない時もあるけれども。
例えば、高速道路に乗っていて、ここからここまでは何キロなのかとものすごいこだわりを見せた事があったのだけれど、今はグーグルマップという素晴らしいものが存在するのですぐに答えを出してあげる事が出来る。親は子供の好奇心を満たす為のヒントをどう与えるのか、学ぶ事が大切なのではと思う。学校も出来ればそうあって欲しいけどね‥あれ駄目、これ駄目じゃなくて。
今は中学受験がかなりメジャーな世の中になっているのだけれど、こういった子供の好奇心に合わせた勉強がある程度選べるのは、公立では限界を感じているからなのだと思う。
うちも、興味のある事を学ばせてあげたいなって思うんだけれど、そういった塾やら、学校やらの教育費に「‥」ってなりました。我が家はまだまだ、iPad様に先生でいてもらおうかな。。
男の子の脳、女の子の脳―こんなにちがう見え方、聞こえ方、学び方
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そうやって大人になっていくんだね
ここ最近、長女が小学校で人間社会の縮図の洗礼をうけているらしい。
すごく仲良くしてくれていたお友達が、突然の無視で話しかけても何も答えなかったりするようになってしまったそうで。。
タイミングも冬休みあけだったので原因も分からない。何があったわけでもないのだが、向こうの心境に何か変化があったのだろう。
娘は私たち親には殆ど何も言わず、自分でモヤモヤする気持ちを消化しようとバレエにあけくれてみたり、クックパッドを見ながら自分でレシピ集を作り、ママに食べさせてあげるからね!と元気にふるまっているが、オーラがシュンとしてしまっているのは明らかで、何もしてあげられない自分がとてもふがいない。
でも、そういった人間関係の消化を自分で学んでいかなきゃいけないんだよね‥どうしてもこじれた方向に行ってしまったら大人が出るべきだとは思うんだけれど、これからの世の中、「スルースキル」というのがもっと大事になってくるのだと思う。これだけの情報量にあふれ、ネットやテレビで本人の意向、意思とは関係なくキャラクターが一人歩きする世界にいちいちひっかかり、どっぷり浸かってしまったら現実を生きれなくなってしまうからだ。
今日ね、一緒に帰ろうって言われたんだけど、いざ帰宅の時間にお待たせ!一緒に帰ろうって声かけたら無視されたんだよ。わけがわからなかったんだけど‥。心臓がどきどきして、心が苦しくなったよ。
私はどう、声かけてあげるのが正解なのかな‥
やっかいな事って、むこうから付きまとってくるものなんだよね。女性特有なのかもしれないけれども。無視するんだったら、無視を決め込んでくれれば良いのにね。
私が一緒に無視を決め込む彼女の悪口を言う事は簡単なことだ。でもそれはなんか違う気がする。
辛いことがあったらね、それをずっと辛いこととして引きずるんじゃなくて、何か変わることのきっかけとして受け止めて前を向くしかないんだよ。悲観して生きていくのと、辛いんだけど前をむくのと、180度人生の見方が変わるんだよ。この本に書いてあったんだけどね。そういって娘にその内容を写したメモをわたすと、大事そうに受け取りじっくりと見つめていた。
辛い事をバネに、前を向いて人生の見方を変える。こんな文字にして書くとチープな事が私は何十年間も出来なかった。でも、変える事のトレーニングが出来るって気づいてからネガティブに負けず、思い癖を変える訓練をすると何年か立つとちっぽけな件では傷つかない自分がいつのまにかそこにいる。単純な事だけど、この心のトレーニングが出来ている人は人間社会を生きる上でとても強く、思い通りに生きていけるのだろう。
今回の出来事でふと思い出した言葉があった。
悪口の中においては、常に言われている方が主役であり、言っている方が脇役であるという宿命がある
一つの出来事を、色んな方向から自然と見えるようになるっていうのが理想だね。娘よ。