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なぜ心が傷つくの

仮に、世の中で定義されるような、幸せな出来事しか起らない人がいたとして果たしてそれは幸せと感じる事が出来るだろうか。

 

悪いことがあるから、いいことが起るととても嬉しくなり幸せを感じる‥。実は「幸せ」 は「下がった所(苦難が訪れた所)」と「上がった所(快楽や幸福感を感じる所)」の高さの違いによって生まれていたのです。

 こころのふしぎ なぜどうして?より

 

 

続・こころのふしぎ なぜ?どうして? (楽しく学べるシリーズ)

続・こころのふしぎ なぜ?どうして? (楽しく学べるシリーズ)

 

 

私はとっくに、他者によって傷つく必要は無いのだと分かっているのに、自分の言葉を伝える能力のなさのおかげで誤解が生じてしまい傷つく事があります。

 

人に自分の気持ちを正しく伝える事って難しいですね。伝えるスキルもそうですが、受け止めるスキルも必要で、自分の口から放たれた言葉はもう自分だけのものではなくなるんです。他人と共有し、受け止めた側にとってはどうとうかは自由なのです。

 

なるべく誤解が生じないように、言葉を選びすぎてしまうせいか、冷たい、業務的だと捉えられてしまったり、そこに根底にある気持ちの感情的な部分をこめようとすると、悪口になってしまうのではと怖くなってしまったりもします。私の場合、ぎりぎりまで根底の気持ちを押し込めたまま他人と会話をするのが鬱になってしまう原因になるようです。

 

自分を分かってもらいたいと思う事って、自己承認欲求ですよね。自己承認欲求は不自由をもたらします。心理学者アドラーは全ての悩みは対人関係の悩みであると言います。

 

私たちは、他人の期待を満たすために生きてはいけません。他人の期待を満たすという事は他人の人生を生きるという事になるのです。

 

ここまで書いてきて、なんとなく自分の今の心理状態を読み解く事が出来てきました。

 

私は今、他者の欲求を満たそうとする選択をしかけているので、気持ちは落ち込み鬱に片足踏み込んでいるのだと思う。

 

今の仕事を辞めた方がいいっていう明らかな選択肢があるのを分かっていながら、職場の人たちに嫌われないようしがらみの無い言葉を日々探しているのである。一応こんな私でも、引き止められている為に承認欲求が多いに働いているのである。(現在休職という状態にある)

 

私は他者の課題を捨てきれずにいる。それに気づかず自分が職場を辞めるという選択に対し、傲慢な事をしているのではと思っている。

 

対人関係の何が私たちの自由を奪っているのでしょう。

 

馬を水辺に連れていく事はできるが、水を飲ませる事はできない。

 

自分を変える事ができるのは、自分しかいない。

 

ここまで分かっているのにね、頭では理解できるのに、人生の課題が起きた時にまだあたふたして傷ついて沼に落ちちゃうんだよね。

 

でも、苦難があるって事は、幸せを感じる能力もあるってこと。

 

自分を変えられるのは自分しかいない。

 

幸せを選択するのも、不幸に自分を陥れて這い上がらないのも自分次第。