写真と趣味の日々をつづる。

なんでもない日々の趣味ブログです

求められるゲス人。ゲスが愛される理由。

ゲスとは、心根の卑しいこと。下劣なこと。また、そのようなさまやその人。身分の低い者。

 

というのが本来の由来であるらしい。

 

でも、最近テレビで見た現代のゲスの認識はかなり違うものだった。

 

 

ゲスな女が、愛される。-あっという間に思い通りの恋愛ができる!
 

 

「ゲスな女が、愛される」私は本屋さんでちらっと表紙を見た時身分の低い人が愛されるほん?とちょっと不思議に思った。本のイラストからもイケイケな感じがしてあまり気にもならなかった。

 

後日、作者の心屋仁之助さんがフジテレビのノンストップに出ていて軽くこの本でいう「ゲス」を説明していたのだけれど、私の認識しているゲスの意味とはかなり違うものらしかった。

 

心屋さんのいう「ゲスな女」とは、

 

シンデレラのように自分に素直で、貧しくボロボロの身なりでいながらも王国のパーティに出席しようとしたり、王子様からの求婚も身分の違いもわきまえず何の躊躇を持たずに自分の欲求や願望に素直に行動出来る女性の事をさしているらしい。

 

確かに、物語からあまり詳しくシンデレラの心情を考えた事はなかったけど、天と地のさもある王子様から求婚されて二つ返事で「はい!結婚します!」と答えて幸せを選べる人って実はあまりいないかもしれない。一般人がロイヤルファミリーに嫁いだらどれだけの苦労や困難が待ち構えているか頭をよぎるのが普通だろう。

 

  • 何故いま、「ゲス」な人間が求められているのだろうか。

 

ゲスな人間とは、自分の欲求に素直に行動できる人の事である。

今までの日本の風潮としては、自分の意見はまず押し通さず他人と協調性を持てる人格が重宝されてきた。内容の同じ仕事を多人数でこなした方が生産率が良かったからだ。でも、今は様々なシステムが構築され機械が仕事を担うようになってきた。そしてネットが発達し、そこでコミュニケーションがとれる世の中にもなった。

 

単純作業は機械やシステムがこなせるようになってきたので、より、一人一人の個性が重視される世の中になってきたのだと思う。単純な事はますます機械に任され、人工知能も発達していくだろう。未来の私たちに必要なもの、機械に勝る術は、個性と考える力なのだと思う。

 

  • 個性は自分の芯(真)の部分から反映される

個性とは、環境から構築されていくものではなく、自分の真ん中の部分、芯(真)の部分からはっせられるものだと思う。いくら上辺の知識で個性を気取っても自分を偽るという無理な行為からほころびが生じ、他人からも、自分自身にも違和感が生まれてくる。ではどうやって芯のある個性を他人に感じてもらえば良いのか。

 

それは、まさに「ゲス」になることなのだと思う。

 

心に余計な装備を纏わず、いつもそのままの心でコミュニケーションをする。いつもどこか本音の部分で話が出来る人であるという事。

 

駄目な自分を許せないでいると、自分そのものを受け入れられなくなります。弱いありのままの自分を見せたくないと見栄をはったり虚勢をはると、周りに攻撃的になったり逆に消極的になったりする。駄目な自分、そのままの自分を受け入れる、

 

愛されようとするのをあきらめる

 

あきらめる事で余計な力がぬけて、そのままの自分を受け入れてくれる人が周りを囲み、良い環境を手に入れる事ができるののだと思う。

 

これからの未来は、今までのようにレールが無い時代。

 

経済や、人間の円満な未来を望むのであれば私たちはゲスでいなければならないのかもしれない。人の為にではなく、自分の為に働く社会。

 

ありのままに。

 

個性を武器に、未来を切り開く必要があるのだ。

 

 

 

言葉はその人のもとを離れると別物になる

私はまだ、ブログ界のことなんて全然わからなくて、難しいこととかすぐ「?」ってなってしまうし、技術のこととかもう「???」ってなる。

 

何も分かってない人が分かる事もある。

 

私は注意欠陥というものと共存しているので、そのせいもあるのか分かりすぎる事、単純なのに全然理解出来ない事などもある。

 

でも、ブログをここ最近いろいろよんでみて、伝えるってすごいなって思うんです。リアルな世界では、自分の心のうちを語り合う機会なんて一般にはそうそうないじゃないですか。でもブログではみんな、自分の胸の内に秘めている言葉をびっくりするくらい上手に心に響かせてくれるんです。子育てブランクでじっくり活字と接する時間が無かった私は改めて言葉、文字の力を感じました。

 

f:id:lilaflower:20160121233436j:plain

 

言葉を話すのは人だけで、私たちはそれを当たり前のように使っている。私の綴る言葉は稚拙だけれど‥いつか、誰かの心にひっかかる言葉を当たり前のように書けるようになりたい。

 

SMAPやらベッキーやら、いろいろメディアが騒いでいたけれどもメディアが発する言葉は断定的なものが多くて表面的な表現ばかり繰り返し脳みそに刷り込みをしてくる。発する側も責任があるのは当たり前なのだけれど、受信するこちら側にも責任があるのを忘れてはいけない。

 

伝え手から放たれた言葉は、完全に独立し私たちの物になるのだ。作られた料理は同じものでも、食べた人それぞれで味が違う。感性が違うからだ。味をどう感じるかはその人次第という事になる。

 

言葉だって同じ。受信した時には完全にそのひと個人のものになる。味わうか、ただ流し込むだけなのか。

 

言葉を放ち手放すと、受信した人の物になる。

 

という事は、褒めたり批判したり、感想や批評を述べる時にはこちらの責任があるのだと言うのを忘れてはならないと思う。

 

伝え手と受け手。このテーマ、もっと文章がうまくなったらまた改めて書きたい。

低学年、男の子問題

多くの母親がぶつかるであろう、男の子問題。

 

うちのがきんちょも例に漏れず、集団生活で問題にぶちあたっている模様である。

 

幼稚園の時は担任の先生いわく、いわゆる手のかかるやんちゃな男の子だったそう。

でも、他の子に手をだしたり喧嘩をするのはほとんど見た事はなく、私としては頑固な上の娘より扱いやすく育てやすい印象だった。

 

でも小学校にあがると、先生から困ってるんです。のお声をよく頂くようになった。まず、やり始めた事を最後までやりきるまで切り替えられない。自分の中で正しいと思った事を曲げられない。授業中さんまんになっているなどなど。他にもたくさん、色々いわれたんだけれども、30分近くの駄目だしに呆然としてしまってあまり覚えていない。

 

私はこれからの時代、「個性」「コミュニケーション力」「興味のある分野(またはついた仕事)に対しての専門性」が大事になってくると、ここを軸に子育てを行っているので、子供が興味を持った事に対してはかなり専門的な所まで好奇心を満たしてあげれるようそういった教育を家では行っていた。私の前では、そこまで切り替えられなく困らせるといった行動を取る事は無かった。大体調べ尽くしたかなーというタイミングで次に切り替えさせれば大体いう事をきいてくれた。

 

長男は宇宙に対してなどはかなり詳しく、大人も調べないと答えてあげられないような知識をめいいっぱい詰め込み、毎日iPadと宇宙図鑑で宇宙旅行を楽しんでいた。得られた知識はやはり誰かに聞いて欲しくなり、ハッブル宇宙望遠鏡はね‥、パーセクってね‥、冥王星はね‥と楽しそうにおしゃべりをしてくれた。

 

問題は、学校の指導中でもこのような知識をひけらかしてしまう所である。彼いわく、学校の授業内容がつまらなくなってしまうと、頭の中で大好きな宇宙の物語がかけめぐり、楽しくなって話したくなってしまうのだそう。これは入学したての時の話で、最近はかなり行動の制御がきく方にはなってきたかな?と思うんだけど、まだ、自分の興味のない授業内容だと教科書が出てなかったりする事もあるみたい。

 

先生が手に負えないというか、困った様子だったので何回か授業を見学しに行ったのだけれど数人が立ち歩き、騒いでる子もかなりいるような状態だった。

 

授業中、先生の話をぶったぎって自由な発言をしちゃうのはだいたい男の子。立ち歩いて廊下にいっちゃったり、喧嘩して手が出たり、注意されてふてくされて机につっぷしちゃうのも男の子が多い。

 

男子って、こういう生き物なんじゃないだろうかって思う。原因をつぶすやり方ではなくて、元々そういう要素があるのだから、そこを転がす方法は出来ないか?と先生に提案してみたのだけれど、今の時代教師でそこまで対処するのは難しいのだそう。子供を適切に叱る事が出来ない世の中なのだ。

 

 脳科学によると、「手がかかる」「大変」「育てにくい」などの部分が、あとで伸びる要素と裏表の関係にあるそうです。つまり、男の子脳の場合、先に大変な部分が出るわけで、その分あとで伸びるということなのです。

 ベネッセ教育情報サイト

 

先に出てきた男としての本能的な部分を、座れ、黙れ、みなと同じ事をしろと大人の言う事をきかすのはある意味で正論なんだとは思う。日本の学校ってそういう場所だから。みんな同じ事をして、敷かれたレールの上や、ルール上で優秀な子が認められる組織が一番楽で非難を受けにくいのだから。

 

でも人間はみんな同じではない。性格も、知能指数も。家庭環境の違いもあるだろう。それを同じ型にはめてやりすごそうという学校という組織に時代遅れ感が否めなく、子供が入学してからまだ日本の一般的な教育ってこんな感じなんだ‥と少し驚いた。

 

昔より、教師がクレームを恐れ子供を怒る事が出来なくなったのでなおさらである。

 

子供、特に男の子が動き回る、次々に関心が移っていくのは健全な事なんだそう。体の血液を循環させるという目的の為に体が自然と動いてしまうらしい。

 

男性は女性より感受性が鈍い生き物なので、行動でどんどん認知をしようとする傾向がある。女性は美しい景色などを見て感情で幸せを感じるが、男性はそこに向かいどのようになっているか確かめる事で好奇心を満たし幸せという事実を確認する。

 

私は、うちの長男が好奇心でどうしてもやりたい見たいとこだわり衝動に陥りそれしか見えなくなってしまった時にはなるべくその欲求を満たしてやるように努力する。状況によって時間がせまっていたり環境がそれを許さない場合はあきらめさせざるをえない時もあるけれども。

 

例えば、高速道路に乗っていて、ここからここまでは何キロなのかとものすごいこだわりを見せた事があったのだけれど、今はグーグルマップという素晴らしいものが存在するのですぐに答えを出してあげる事が出来る。親は子供の好奇心を満たす為のヒントをどう与えるのか、学ぶ事が大切なのではと思う。学校も出来ればそうあって欲しいけどね‥あれ駄目、これ駄目じゃなくて。

 

今は中学受験がかなりメジャーな世の中になっているのだけれど、こういった子供の好奇心に合わせた勉強がある程度選べるのは、公立では限界を感じているからなのだと思う。

 

うちも、興味のある事を学ばせてあげたいなって思うんだけれど、そういった塾やら、学校やらの教育費に「‥」ってなりました。我が家はまだまだ、iPad様に先生でいてもらおうかな。。

 

 

男の子の脳、女の子の脳―こんなにちがう見え方、聞こえ方、学び方

男の子の脳、女の子の脳―こんなにちがう見え方、聞こえ方、学び方

 

 

そうやって大人になっていくんだね

ここ最近、長女が小学校で人間社会の縮図の洗礼をうけているらしい。

 

すごく仲良くしてくれていたお友達が、突然の無視で話しかけても何も答えなかったりするようになってしまったそうで。。

 

タイミングも冬休みあけだったので原因も分からない。何があったわけでもないのだが、向こうの心境に何か変化があったのだろう。

 

娘は私たち親には殆ど何も言わず、自分でモヤモヤする気持ちを消化しようとバレエにあけくれてみたり、クックパッドを見ながら自分でレシピ集を作り、ママに食べさせてあげるからね!と元気にふるまっているが、オーラがシュンとしてしまっているのは明らかで、何もしてあげられない自分がとてもふがいない。

 

でも、そういった人間関係の消化を自分で学んでいかなきゃいけないんだよね‥どうしてもこじれた方向に行ってしまったら大人が出るべきだとは思うんだけれど、これからの世の中、「スルースキル」というのがもっと大事になってくるのだと思う。これだけの情報量にあふれ、ネットやテレビで本人の意向、意思とは関係なくキャラクターが一人歩きする世界にいちいちひっかかり、どっぷり浸かってしまったら現実を生きれなくなってしまうからだ。

 

 今日ね、一緒に帰ろうって言われたんだけど、いざ帰宅の時間にお待たせ!一緒に帰ろうって声かけたら無視されたんだよ。わけがわからなかったんだけど‥。心臓がどきどきして、心が苦しくなったよ。

 

私はどう、声かけてあげるのが正解なのかな‥

やっかいな事って、むこうから付きまとってくるものなんだよね。女性特有なのかもしれないけれども。無視するんだったら、無視を決め込んでくれれば良いのにね。

 

私が一緒に無視を決め込む彼女の悪口を言う事は簡単なことだ。でもそれはなんか違う気がする。

 

辛いことがあったらね、それをずっと辛いこととして引きずるんじゃなくて、何か変わることのきっかけとして受け止めて前を向くしかないんだよ。悲観して生きていくのと、辛いんだけど前をむくのと、180度人生の見方が変わるんだよ。この本に書いてあったんだけどね。そういって娘にその内容を写したメモをわたすと、大事そうに受け取りじっくりと見つめていた。

 

 

決めた未来しか実現しない

決めた未来しか実現しない

 

 

辛い事をバネに、前を向いて人生の見方を変える。こんな文字にして書くとチープな事が私は何十年間も出来なかった。でも、変える事のトレーニングが出来るって気づいてからネガティブに負けず、思い癖を変える訓練をすると何年か立つとちっぽけな件では傷つかない自分がいつのまにかそこにいる。単純な事だけど、この心のトレーニングが出来ている人は人間社会を生きる上でとても強く、思い通りに生きていけるのだろう。

 

今回の出来事でふと思い出した言葉があった。

 悪口の中においては、常に言われている方が主役であり、言っている方が脇役であるという宿命がある

 寺山修司

 

一つの出来事を、色んな方向から自然と見えるようになるっていうのが理想だね。娘よ。

なぜ心が傷つくの

仮に、世の中で定義されるような、幸せな出来事しか起らない人がいたとして果たしてそれは幸せと感じる事が出来るだろうか。

 

悪いことがあるから、いいことが起るととても嬉しくなり幸せを感じる‥。実は「幸せ」 は「下がった所(苦難が訪れた所)」と「上がった所(快楽や幸福感を感じる所)」の高さの違いによって生まれていたのです。

 こころのふしぎ なぜどうして?より

 

 

続・こころのふしぎ なぜ?どうして? (楽しく学べるシリーズ)

続・こころのふしぎ なぜ?どうして? (楽しく学べるシリーズ)

 

 

私はとっくに、他者によって傷つく必要は無いのだと分かっているのに、自分の言葉を伝える能力のなさのおかげで誤解が生じてしまい傷つく事があります。

 

人に自分の気持ちを正しく伝える事って難しいですね。伝えるスキルもそうですが、受け止めるスキルも必要で、自分の口から放たれた言葉はもう自分だけのものではなくなるんです。他人と共有し、受け止めた側にとってはどうとうかは自由なのです。

 

なるべく誤解が生じないように、言葉を選びすぎてしまうせいか、冷たい、業務的だと捉えられてしまったり、そこに根底にある気持ちの感情的な部分をこめようとすると、悪口になってしまうのではと怖くなってしまったりもします。私の場合、ぎりぎりまで根底の気持ちを押し込めたまま他人と会話をするのが鬱になってしまう原因になるようです。

 

自分を分かってもらいたいと思う事って、自己承認欲求ですよね。自己承認欲求は不自由をもたらします。心理学者アドラーは全ての悩みは対人関係の悩みであると言います。

 

私たちは、他人の期待を満たすために生きてはいけません。他人の期待を満たすという事は他人の人生を生きるという事になるのです。

 

ここまで書いてきて、なんとなく自分の今の心理状態を読み解く事が出来てきました。

 

私は今、他者の欲求を満たそうとする選択をしかけているので、気持ちは落ち込み鬱に片足踏み込んでいるのだと思う。

 

今の仕事を辞めた方がいいっていう明らかな選択肢があるのを分かっていながら、職場の人たちに嫌われないようしがらみの無い言葉を日々探しているのである。一応こんな私でも、引き止められている為に承認欲求が多いに働いているのである。(現在休職という状態にある)

 

私は他者の課題を捨てきれずにいる。それに気づかず自分が職場を辞めるという選択に対し、傲慢な事をしているのではと思っている。

 

対人関係の何が私たちの自由を奪っているのでしょう。

 

馬を水辺に連れていく事はできるが、水を飲ませる事はできない。

 

自分を変える事ができるのは、自分しかいない。

 

ここまで分かっているのにね、頭では理解できるのに、人生の課題が起きた時にまだあたふたして傷ついて沼に落ちちゃうんだよね。

 

でも、苦難があるって事は、幸せを感じる能力もあるってこと。

 

自分を変えられるのは自分しかいない。

 

幸せを選択するのも、不幸に自分を陥れて這い上がらないのも自分次第。

 

仕事してないっていう日々

仕事に行かない、専業主婦の状態になって約一ヶ月が過ぎました。どんな気持ちの変化が起ってきたか途中段階の心境の記録です。

 

子供に必要な事にいち早く気づいて対応が出来る

 

お仕事と子育てを両立されているワーキングマザーのほとんどが多かれ少なかれ悩む事は子供との時間が少なくなってしまう事。がっつり仕事をしているとどうしても子供との時間の密度が減ります。

 

子供の話をゆっくり受け止めて聞くという時間がなかなかとれなくなる為に、実は学校でトラブルがあったとか、なんでもないけど聞いて欲しい事があったりしても、こなさなければならない仕事、家事や寝る支度などに追われ親子共にスルーしてしまう事があります。

 

仕事をしていなければたっぷり時間を注いであげられるので、ちょっとした心境、トラブルなどもいち早く気づいてあげる事が出来るようになりました。

 

 

仕事も子育ても自分もうまくいく! 「働くママ」の時間術

仕事も子育ても自分もうまくいく! 「働くママ」の時間術

 

 

 

‥なんてここまで書いてみて、、

 

 

最近なんだか心の方の調子が思わしくなくて、飾りつけた書き方が出来ない自分に気づきました。なので、正直な気持ちをつらつらと書いていこうかと思います。気分ムラ、気持ちムラ、嫌になるんだけど、書くという行為がプラスなのは分かるんだ。だから書く。うん。

 

仕事をやめて静寂が訪れた。朝起きて、接客向けの人格を呼び起こす儀式の必要もなくなった。起きると、何も予定がないという日々。仕事をしていた時は一ヶ月の中で5日あるかないかだった予定の無い日が毎日に近くなった。子供と向き合える日々が増え、気持ちが充実していくのを感じた。でもこれは、今まで向き合えなかった時間があるからこそ感じられるありがたいものなのだと思う。だから、ワーキーングマザーを良く思わない昔ながらの考えの人に、あなたの子供、見てないとこで迷惑かけてるよ、お母さんが仕事してるからじゃない?なんて言葉を浴びせられたりもしたのだけれど、私は仕事と子育て、両立が出来るのだったらこれが一番良いのだと思う。家庭の経済的にも、母親の心の充実の為にも。

 

何にかんしても、一つの世界の中からしか物事を判断出来なくなるというのは怖い。狭い世界に閉じこもり、一方通行からしか物事を考えられなくなってしまうと子供を圧迫してしまう恐れがある。

子育て環境は視野の狭い世界、社会とはまた違う独特なルール、偏見に気づかないうちに毒されてしまうような危険のある環境に陥ってしまう事もあるのだ。(PTAとかPTAとか‥)

 

いずれ、子供も社会に出ていくのだから、一番密着している母親も今現在の社会を知っておいた方が良いと思う。

 

もう少ししたら、私もまたお仕事探すつもりです。子育てと両立出来るとこ。。何故子育てと両立したいかっていうと、子供の成長ってやっぱり宝で、日に日にめきめき変わっていくので、それを目に焼き付けたいっていうのがあるから。

 

何も無い日々、スケジュールに圧迫されない日々に自由と心の充実を感じながらも、コミュニケーションを通じて化学反応をおこし学びを得るというのをこなせていない自分に焦りもあります。自分の考えに閉じこもりがちになってくる自分を感じる。

 

別に1人で家に閉じこもっていてもあまり不自由を感じないけれど、昨日数人のお友達とお茶を飲みながら話して、笑って、伝えて、受け止めて、やっぱり得るものはあるんだなって思った。引きこもりもよいけど、1人じゃ人生に化学反応は起こせないのだと思う。

 

幼稚園や、学校に子供が入ると感じるのが、周りのママさん達の仕事のスキルやスペックの高さに本当に驚きます。もちろん、仕事ではなく非営利なのでボランティアに近いような状態で、さまざまな書類、議事録やらなにやらを仕上げていきます。幼稚園の卒業対策委員会なんて経験した時には、会社にも負けず劣らずな組織形成に驚きを隠せませんでした。もちろん賃金なんか発生しません。全ては子供の為という名目の元で、夕ご飯を作る暇もなく、追い込みの時には睡眠を削りながら書類を作り、イベント進行すべてをこなすんです。すべての幼稚園などがそうではありませんが‥。

 

こういった、働くスキルの高い人たちが、うまく子育てと両立して仕事が出来る社会になればいいなって本当に感じます。

 

あと、仕事辞めて気づいたというか、とっくに分かっていた事ですが

 

部屋の片付けは仕事理由ではないですね‥

 

相変わらずきたないまんま

 

ここは、仕事という理由ではなく、自分の心に確実にあるようです。。

 

 

モノは最低限、幸せは最大限

モノは最低限、幸せは最大限

 

 時間の使い方なんだよなぁ

 

どうして外着を着たまま寝ちゃいけないの?

大人のいう、頭でっかちのしつけ理論なんて子供には押しつけでしかない。子供は、命を握られている人質のようなものである。育ててもらっている環境から突然追い出されてしまったら命の危険があるのだから。

 

子供は分けわからずとも、本能で親や学校の先生のいうことに自分なりに従おうとする。

 

私自身も、子供にああしなさい、こうしなさいと、しつけを行う時はその言葉の裏に「世間体」を感じとり、落ち込むがしばしばある。

 

脱いだものはぬぎっぱなし、ゴミは床にポイ、友達との約束も忘れてしまうといったあまりに目に余った行動にしびれをきらし、座らせ目を見てその事について話し合った。

 

どうしてだらしなくしちゃいけないの??

 

だらしなくしても、うちの子達は自分で困る様子が全くない。むしろ便利そうなのである。ちびまるこちゃんみたい。次の日学校で着ていく洋服のまま寝れたらそのまま学校にいけるのに、なんで寝間着に着替えるの?私も子供の頃そう思いました‥。教材もおき勉禁止なのに、いくらいっても置きっぱなし。忘れ物なくなるし、べんりだよ〜って朗らかに答えてくる。私も確かにそう思いました‥。なんで、こんな重たいもの毎日持って帰ってきて持ってくのかよって。

 

みなさんはこういった質問を子供からされたらなんて答えてるのでしょう。。きになりますね‥

 

私は、今日、かなり言葉を選びながらこの答えを選びました。

 

もし、将来1人ぐらしをするようになったら自分でなんでもやらないといけなくなるよね。お茶碗あらい、そうじ洗濯、準備全般色々、人に手伝って貰えるのが当たり前になりすぎちゃったら、1人でこなさなきゃいけなくなった時に困っちゃうんじゃないかな。別に今、掃除洗濯、身の回りの整理、手伝ってもらえれば困らないけど、今からやり方を学んでおけば、その状況になった時にすんなり出来るようになるんじゃないの??

 

中には一人暮らししても、栄養やおいしい食べ物に興味が無くてお菓子とかお腹いっぱいになるもの口に詰め込んで食事はオシマイ、何日も洗ってない洋服来てても困らないで生活してる人はいるけど、お母さんはあなたにそんな人生に無関心な人間にはなって欲しくないな。

 

正当なこと言ってるようで、でも、やっぱりこの子を社会に出した時に世間知らずの状態で行かせるよりも、多少の常識の範囲で知っててほしい。そんな世間様の目も気にしながら言っているのかもしれないって思ったりもする。

 

私の言葉は、子供を「一般常識」というものでガチガチに洗脳するものなのかもしれない。

 

私の親のように、親に恥をかかせないように。という意図が見え隠れするのかもしれない。

 

これを解決する方法としては、褒めたり怒ったりではなくて親が行動で見本をみせるしかないんだと思う。そこがまた問題で、私自身効率よく片付けるっていうのが本当に苦手なんだよね‥分かってはいるんだけどね。茶碗荒いの途中に突然違う事が気になって洗濯物干し始めちゃったり、またまた違う事したり。ぐるぐる回って何やってるのか分かんなくなっちゃったりする。

 

それもあるから、自分の子は小さいうちから、なんでもやらせて出来るようにさせてあげたいって思う。

 

任せるっていうのは、大変な事で、私はなかなか出来ず時間に追われているので自分でなんでもやってしまったりする。でも本当は、米研ぎなどもやりすぎて米がばらばらにちらばっても、見守りながらやらせてあげるべきなんだよね。

 

 

モンテッソーリの幼児教育 ママ,ひとりでするのを手伝ってね!

モンテッソーリの幼児教育 ママ,ひとりでするのを手伝ってね!

 

 

仕事を覚えなきゃいけない時って、研修を立ち代わり入れ替わり、色んな人に教わったりもしたけど、教える技術、任せる技術が高い人は分かりやすいんだな〜ってすごく関心した覚えがあります。

 

任せる技術

任せる技術

 

 「子供に魚を一匹与えれば一日は食べられる。しかし、魚のとり方を教えてあげれば一生食べられるようになる」

 中国のことわざ「任せる技術」より

 

まかせられる技術もあるっていうことだよね。なんでも大人にやってもらったままだと、まかせられる事になれなくて辞めちゃったりする人もいるんだと思う。

 

ちなみに、うちの子達のどうしてシリーズ、吹き出してしまうようなものもあった。

 

低学年の時の話なんだけど、

 

書いてもいいのかな‥ププ。

短いチュニックの下にズボンを履かないでタイツだけはいて帰ってきた事があった。たまたま帰ってくる姿を目撃したんだけど、まるでわかめちゃんのような子がいるな〜ってよく見たらうちの子だった。どうしてズボンはいて帰ってこなかったのさ、って聞いたらタイツはいたし、パンツ見えないからいいと思った。ズボンめんどくさかったって。

 

体育のあとに、Tシャツの上に、下着のキャミソールを着て帰ってきたこともあった。その斬新なファッションに目を奪われた。

 

彼女いわく、困らないし、二枚きているのは間違いない。とのことらしい。

 

上履きを片方だけ手でぶらんぶらんさせて持って帰ってきて、なんで一足?もう片方は?ってきいたら、もう片方は来週洗うから大丈夫っていう。しかもオセロみたいになるからかっこいいって。斬新だな!その発想は褒めるべきか‥いやいや、まわりに合わせる事を教え込むべきなのか。。

 

低学年ではそんな事が多発して、面白いんだか心配なんだかよく分からない日々をすごしてきたんだけど、最近はやっぱり少しずつ普通の人間っぽくはなってきたとは思う。まだおかしいんじゃないか??と思う事は多々あるんだけど。

 

そんなオカシイ創造性に豊んだ部分も存分に伸ばしてあげたいとも切に思っています。

 

忘れっぽい娘の為に、大きめのホワイトボードを購入してみました。こなさなきゃいけない項目を書かせる習慣をつけられたら良いなと思いまして。それを伝えると、がんばるよ!って言ってくれてすごくご満悦で、ホワイトボードいっぱいに描き始めた約12歳‥

 

f:id:lilaflower:20160109111854j:plain

 

顔に十字傷ついてますけど‥

 

なんだかんだで、面白いのでこのままでもいーのかな、とおもっちゃったりもするのです。

 

いや、いかんいかん。

 

でも、笑顔が大事、楽しく過ごせる時間がなによりも子供の成長には繋がりますね。

 

それだけは確実なのだと実感する毎日なのでした。